
明後日土曜日は2/22の猫の日で、今朝のツイッターの季語は「春の猫」。
猫好きな夫と暮らして飼い猫の途切れることはほとんどなかったけど、拾ってすぐ死んでしまった猫以外はみんな避妊手術をしてうちで子猫が生まれることはなかった。
つい先月まだ若いのに亡くなった坂東真砂子さんが何年か前に、避妊手術はひとの傲慢ではないかと言って、そのうえに生まれた子猫は「抛り殺す」とつけ加えて物議を醸し、小説家としてよりそちらで有名になってしまったのはお気の毒だった。
そのエッセイが騒がれていた頃やはり夫も憮然とはしていたが、あたし達が子どもの頃は猫だけではなく犬も放し飼いの時代で、ふたりとも雌の捨て猫や捨て犬を拾って帰っては叱られた経験があり、ペットの避妊は一般的ではなかったから家でお産をした子猫や子犬の処置は親任せ、貰われて行った子も死んだ子も捨てられた子もあったのだから、外国で暮らしていたこの作家の、いくらか偽悪めくのは倫理の強さ故だと読んではいた。
強い倫理感が硬直していて、小説はいまひとつ突き抜けるところが少なくて余り面白いと思ったことはなかった。問題提起のつもりのエッセイに、作家なら当然思い浮かぶ読み手の反応をきっちり考えていないようなのも、その硬さのせいだったのかもしれない。
わが家の最初の猫は来たときから老嬢で季節が来ても恋猫らしい素振りは全くなかったが、その後の男猫たちは外出自由な飼い方を最初の三年間ほど続けていたので恋の季節は暫く帰って来ず、その後室内飼いに改めて手術を受けさせるまでけっこうご近所に迷惑をかけていたような気もする。恋をしに出て帰って来なくなった猫がいて、それがほんとに悲しくて残った男どもを手術をすると決めたとき、夫が少し切なそうだったのは同じ雄の痛みを感じていたのかもしれない。
あたしがそんなに気に病まなかったのはひとの傲慢なのか、雌の傲慢だったのか。長く生きてくれた最後の猫は女猫で、こちらを生後半年で避妊のために病院に連れて行くときはほんの少し気が咎めた。
あるがまま、なんて猫にもひとにもないのだよ、きみ、と言い聞かせたりはしなかったけど。
若猫の恋もどかしく狂おしく
恋の猫羯諦羯諦 波羅とは鳴けず
血を流しやつれて男猫の恋
恋猫が帰って来ずに陰の膳
あっちこち煙を出して猫の恋
叶えたら恋猫ただの猫となる
もうこれでお止しになれば猫の恋
二十年(はたとせ)を記憶積まずに生きるねこ子を産めぬねこ恋知らぬねこ
この四年ほどの駄句、駄歌だけど猫たち、ありがとう。そして本日の駄句
いつまでも春知らぬまま断種猫
身を揉んで外へ外へと春の猫