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旅の最後は臼杵の石仏。

緑に覆われた左手の大絶壁を見上げると三体の磨崖仏、右手は水打ち寄せる湖畔、小さな湖の奥にはナイアガラ型の小ぶりの滝がかかり尾の長い鮮やかなグリーンの鳥が羽搏き、足元は草原で白い花が咲き乱れ、裸足のあたしは朝露を踏んで歩いている、という繰り返し見る夢がある。磨崖仏は驚くほど巨大なのだがちっとも威圧的ではなく、伏し目で慎ましい表情で微かに懐かしいような匂いを放ち、そんなに昔から見ているわけじゃあないのでインディジョーンズかあるいはPCゲームで見た場面かもしれないが、とても快い好きな夢なのだ。

生家のアルバムには指宿やら草千里やら耶馬渓やら宮崎やら別府やら長崎やら、九州の色んな観光地で祖母に抱かれたりよちよち歩きだったりするあたしの写真があって、あそこも行ったここも行ったとそれを見せられたらそうかと思うしかないけれどほとんど全く記憶にはなくて、いつも騙されているような理不尽な思いがしていて、その中には臼杵の石仏もあったような気がする。
もしあの素敵な夢の素が、映画やCGからではなく実際の景色ならどんなに楽しいだろうと確かめに来てみたのだった。

残念ながら磨崖仏は写真の通りそんなに巨大なものではなく、大絶壁ではなく山肌の岩窟にたくさん彫られていて、もちろん滝も湖もなかった。入口のお不動さまを除いてはどなたも優しげな表情ではあったけれど。

大分には他にも磨崖仏があちこちにあるので、ひょっとしたらあたしの夢の場所はどこか別のところにあるのかもしれないし、でもあんなに美しい景色ならとうに観光名所になっているはずなので、やはり夢の場所は夢の中にしかないのかもしれない。

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左は途中下車の豊後竹田の岡城。
「荒城の月」の作られたところで本丸そばには滝廉太郎の銅像が建っている。
列車の時間の隙間でさっと見学しようと思っていたのに思いがけずに広大な城址で、一週間後にあるお祭(昨日・今日だったのね)のためにたくさんの地元の方が石垣についた草を剥ぎ取ったり、落葉を掃き清めたりして用意に勤しんでらした。
今まで見た山城の中で一番広い敷地(東京ドーム22個分・こう言ってもあたしにはピンとこないけど)にはもうほとんど建物がなく何箇所もの大きな石垣や櫓跡・屋敷跡ばかりが残るいかにも”荒城”で、あの曲は詞もメロディーも実に実に哀しい。もっとも他にも仙台城ともうひとつ「荒城の月」のモデルになったというお城があるそうで、まあお城はどれも確かに哀しいものなのだ。

右は豊後竹田駅にいた猫さん。
きみは駅員さんかしら、と聞いたけどご自分でもよく判らないらしく捗々しい返事は頂けなかった。
けっこう長時間のお城見物の後で駅に戻ってもまだ待合室で寝ていて、やはりあたしは次は猫がいいと思う。

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左;竹田の武家屋敷通り 右:臼杵の二王座通り
どちらも古いお屋敷が続く。どこもずっと昔からのひとが住んでらして、九州の小さな町は侮れない。

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最後にもう一枚、石仏。
ここを後にするとき、岩窟群に囲まれた緑地に突然若い男の子がふたり現われてキャッチボールを始めた。
周囲に民家はなく、ほんとに不意に現われて、紀州新宮の天地の辻でキャッチボールをしていた若い衆を思い出してくらくらと目眩。
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旅枕という言葉が好きだ。言葉だけではなく、長い旅の見知らぬ夜を仮寝する心許なさが好きだ。大きく構えて言えば人生とはそんなものだと思っているし、そんな大仰なことではなく旅先の風景やひとに自分のこころが震えたり驚いたりする小さな機微が好ましい。うんと余裕があればずっと旅していたいと思う。
残念ながらさほど余裕を持たないので今回の熊本行があたしの旅の最後かもしれない。

写真が結婚前の本籍地あたり。一度ここに立ちたかった。
もちろん六十余年前とは全く様相は変っているはずだし、実際に生まれたのがここらの病院だったのかそれとももっと奥の湖のそばだったのか今ひとつ定かではないのだけど、小学校の前の住宅地なのに荒れた空地に貧相なコスモスが揺れ、窓にバッテンのテープを貼ったもう誰も住んでいない古びたアパートがあって、なんだかとても自分に似つかわしいような気分で暫く界隈を歩き回った。
父の、いや祖父の代から生まれた場所に定着しない一族なのでこの地の記憶はほとんどなく、若い頃は書類上の場所としてしか認識していなかったのにそれなりに感慨深くなるなんていよいよヤキが回ったらしい。

大型の台風が近づいている日曜日に降り立った熊本駅はお定まりの近代的な駅で、駅周辺より少し離れたお城あたりが市の中心地。広い駅前の通りを色とりどりの市電が走るのが地方色だろう。まずは駅そばの図書館で昭和20年代の熊本を種々の本で調べてみる。
もう30年代に入ろうという時期の満州からの引揚列車の写真があり、溢れるばかりに薄汚れた男たちが列車に取りすがっている。父は戦後暫くシベリアに抑留されていたので、この写真よりは早いときではあるけれど同じように痩せた身体で蒸気機関の列車にしがみついて熊本へやって来たのだろう。母の一家とはその途上で知り合ったと聞いていて、熊本にはそういう引揚者のために旧陸軍の施設が住宅として用意されていたらしい。
祖母は祖父と一緒に終戦前夜に大慌てで日本に戻っていて多分その頃は福岡で暮らしていたはずで、なぜ父が真直ぐそちらへ行かなかったのかはもう聞く術はない。

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今から見れば荒れた毎日の中で特に大きかったのが昭和28年の6.26。記録的な豪雨で北九州全域のほとんどの河川が氾濫する。熊本では白川が何箇所でも溢れ市内のほとんどが水没し、どの資料にも水から屋根だけ突き出す家々や流れてゆく家屋、壊れる橋、その後の復旧作業にたくさんの頁を費やしているし、乗るタクシーの運転手さんたち全員「昔の水害」と言えば老若問わず「あ、6.26ね」と即座に応えてくれる。
あたしのとても古い記憶に、階段から下を覗き込むと水が踊場より上に暗く光りながら溜ってゆく、畳が浮かんで簞笥がゆっくり水中に倒れていく、という場面があり、その後父に抱かれて屋根に上がった気がするのだけど、それがここでの出来事なのか同じ豪雨でやはり氾濫した博多の那珂川畔の出来事なのか、これももう確かめる術はないが二才の脳にもしっかり刻まれるような大災害だったのは間違いないだろう。
もっと詳しくなにもかも聞いておけばよかったと、父に対して最後まで親不孝な娘だったのを今さら後悔してもしかたがない。としても自分自身の始まり、ひいては親やその親などに長い間余りに無関心過ぎたと思う。

本籍地は地番で、該当する住居表示の番地を図書館では調べきれず結局連休明けに市役所に行く。
14階の展望ロビーからは市内全域が見え、ずっと熊本市は阿蘇山が見える火の国だと思い込んでいたのだがうっすらと外輪山の形が見えるだけ。白川や水前寺や江津湖・有明海のたっぷりとした水の国、緑濃いお城の町が若かった両親が日本での生活を始めあたしが生まれた町だった。もっとも親たちはその年の暮には離婚して、母の一家は東京へ出るのだから28年の水害は報道でしか知らないわけだ。

市役所の方々は親切で、大判の地図を繰りながら地番を調べてもらい同じあたりにずっと暮らしているという方も紹介していただいた。戦後の混乱期にたった二・三年ばかり住んだ引揚者などそれはそれはたくさんいて、大水害の後はみなどこかに散ってしまったとお聞きして、昔からある辻のお地蔵さまやお寺や神社、古樹など教えてもらい写真に収め、何を得心するわけでもないけれどまずは一段落のような不思議な気分のプロローグ。

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     ほととぎすそのかみ山の旅枕ほの語らひし空ぞ忘れぬ/式子内親王

えへ、そんな柄じゃないのに古い雅な歌など。
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 久々にきみの愛称声にして緩ぶこころのこれきりの夜

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【言葉2】
出雲は確かに一度訪れたかった場所ではあるが、今回の旅は夫の大事な友人と会うのが一番の目的だった。うんと若い頃の会社勤めの、幾年か一緒に過ごした時間が夫にはとても大切でいつも懐かしんでおり、結局みなさん生涯の友人になり葬儀に駆けつけてくださった。倉吉に暮らすこの方にはあたしも拙い文章を読んでもらったり、季節ごとに暖かな手紙をいただいたり、夫を失ってすぐ幾度か一緒に桐生の山を歩いてもいて、どうしても会っておきたい方。きっとこれが最後になるだろうと言えば大袈裟なと笑われるかもしれないけどそんな気分も少しはある。

招き入れられる書斎は実にあたし好み。夫も本が手放せないひとだったが読書の好みはいくらか違い、まあそれが面白かったけれど、夫婦とは可笑しなもの正面切って言葉について話すにはなにかしら恥じらいもあり、言葉を介在させなくても互いに判ったつもりもあって、夫とはまた違う思いであたしにもこの方は大事なひとになっている。

その頃やはり同僚だった奥さまが、一日仕事を休んでまで案内してくださる町は海と山に挟まれて明るく伸びやかで、観光化が成功した白壁の蔵の連なりや疎水や古い町並みには平日でもひとが多い。町もだけれどまずは里山とここでも小さな山をふたつ歩き、これはもうあたしにとっては旅の必須案件、妙なところで夫の趣味を受け継いでしまった。
ご夫婦共に夫と山を歩いていたので思い出話にも山行の話が混じり、なにより奥さまが結婚を決めたのが北八ヶ岳を歩いたときで、夫はそれを見習ってあたしを北八へ最初に誘ったのだと、これは本人が言っていたのだった。

夫の愛称が飛び交う尽きない話でお酒の夜は更け、ホテルに戻ってひとりになってもちょっと声出して呼んでみたりして、翌朝、駅へ送ってくださったその方に手を振ってもなにかしら心が残る。

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町中で撮る記念写真の真中は子ども嫌いだった夫がとても誉めていた末のお嬢さん。桐生に遊びに来たときは小学生だった彼女ももう19歳。そのとき一緒だった上の男の子はもう結婚して、たまたまその夜電話で話す機会があったのだが夫を覚えていてくれて嬉しかった。そういえばその長男の方が二、三才のとき一の倉を見上げながら一緒に歩いたりもして、やはり珍しく夫は”たけるくん”が好きになったのだった。
(旅はこれから黄泉比良坂を越えて松江に。まだまだ続く)
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 いい子ぶるわけじゃあないが泣く夜も
              ごめんね因幡の白兎たち

                       (題詠2014:35 因)

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山が一番美しい季節で、あたしはいまやGWとは縁がない暮らしをしているとはいえ世間がお休みと聞けばつい出かけたくなる。特に地元ではあっても電車を使う山は行ったからには登らなきゃ損という貧乏根性がいい方に働いて、ひとりでも歩ける場所が増えてきた。
どこであれ一人で出かけて、何でも一人ですますのが当たり前のひとからは蔑まれてしまうけれど、長年夫に任せて動くのになんの不自由も感じて来なかったので、新鮮と言えば新鮮、心細いと言えばやはりまだまだ心細くもある山歩き。山が高くなるほど、かかる時間が長くなるほど下山すればどこか誇る気分にもなるしいくらかハイにもなっている。

写真は昨日歩いてきた新緑の道。
里山ではあるけれど山行中誰ひとりにも会わず、しかも天辺に着いてから別のルートで夫と登ったことのある山だと気づいて、帰ってから古い写真を漁り、それはもう25年ほども前、互いの若さや過ぎてきた時間のことなど思うこと多し。
その頃はけっこう一緒に山へ出かけたとはいえ、いつも彼に付き合ってあげている気分。道のことも山のこともほとんど覚えてはおらず、ついこの間未亡人仲間(!)の旧友とも話したのだけど、ふたりでいる時にはちっとも不自由には思ってなかったのにひとりになって手に入った気ままさの余りの心地よさに困惑してしまうことがあって、心のありようが不思議になる。愛だよ愛、とそのひとは言うけれどそれとは少し違うような気もする。
あたしたちは互いに大切な箍だったのかもしれないし、けっこう重たい枷だったのかもしれない。なんにしろ必要で大事に思っていたけれど。

怖いくらい赤い山躑躅が咲き乱れる小ピークで長々と時間を過ごし、狂おしい花色に酔って、なんだかまだ醒めきれていない。
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 モノクロの毬栗頭のみなし児の六十八年のちの恍惚 
                     (題詠2014:31 栗)

           菫

ドイツの空襲のことを知ろうと1945年の写真集を久しぶりに眺めて、その映像のどれにも人がたくさん写っているのにいまさらながらに驚いたりしている。兵隊たちも子どもたちも一般のひとたちも女たちも、生きてるひとも死んでるひとも一枚一枚の写真にぎっしりと顔が並んで、肥満体のひとはほとんどおらず(ロシアの将校にひとりいた)、たいていの被写体の頬はこけている。身なりはみんな貧しくて生きているのに半裸のひとも混じる。
こんな時代があったのだと、まあ知識としては当然知ってはいるのだけれど。

若い頃一緒に仕事をしていた年上の女性が、大切にしていた写真を見せてもらったことがある。
社会派の後に有名になったカメラマンが撮ったもので、おかっぱ頭の少女がショーウインドを覗き込んでる写真だった。戦後すぐ、まだ子どもが何も持てない時代の、彼女は6歳くらい、バックは黒く溶けていて、ショーウインドに飾られたハイヒールを見つめる瞳は大きくてウインドウの中の光を反射して(キャッチアイって言ったけ)、唇をきゅっと結んでまるで息を止めているように一心不乱に見つめている横顔で、当時どこかの雑誌に大きく掲載されたのだという。

勿論あたしが知り合った頃はしっとりした大人の女性で、目だけは大きくて子どもの頃の名残があったが、くるくるとパーマをかけて10センチもあるヒールを履き、背筋を伸ばしてしなやかに動く小柄なひとだった。
撮られた時のことは全く記憶になくて、その後写真の評判が良かったらしいカメラマンがバナナの大きな房を持ってきたことだけ覚えていると言っていた。

桐生に来る前の昔々の話で、あのひとどうしているのだろうとふと。
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 折紙の金銀ばかり愛してる嫌な子供がわたくしでした
                          (題詠2014:21 折)

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祖母や父が昔の話をするたびにうんざりしてそんな大人にはなるまいと思っていたのに、すっかりそんな大人になって、冬の旅行のときなどホテルの若い子に、四十年前ほどはねここはみんな田圃、なんてそんなの相手は知ったこっちゃないのにさすが今の子の優しさでへえーと一応は正しい相槌を打たれ、部屋に戻って悶絶したりもするのだけど翌日はまた懲りずに、歩いた山の辺りの変わりようを昔と比べて喋り、ほんとにほんとに歳はとりたくないものだ。

自分が知っている五十年前がそんなに昔のこととは思えないのに、知らない五十年のなんと遠くにあることか。生まれる五十年前といえば半ばは過ぎたが明治時代、前の世紀の始まり。昭和天皇が生まれた年で、年表には桂太郎や伊東博文、幸徳秋水や内田良平、みんな歴史上の人物ではるか彼方、けれども不況や増税の文字は現在と変らない。
これから五十年先は閏年で元旦が火曜日だとしか判らない。人間がいさえすればやはり増税と不況は記されるとしても、もうそんなこと知っちゃいないし、はるか彼方のことである。

そんなことを思ったのは袴田事件の被告が47年余ぶりに釈放されたニュースの、まだ冬服の警備員に囲まれた半袖姿の写真を見たからで、同じ時代に生きているのにこの方の五十年はやはり遠い時間で、自分の身に置き換えたときにあれもこれもなにもかもなかった訳だと思うと寒々と悲しい。

写真は隣の市にある樹齢千年を超える大きな杉。あちこちで巨木を見るときのあの畏怖の混じる敬虔な気分を、杉であるだけに強く感じる。縦に撮っても横に撮ってもこの巨きさは上手く写しとれずにいつも苦労するのだけれど、植物の時間というのはひととは違って悠然としているのだろう。千以上の輪を描く年輪の、その一部に過ぎないひとの一生のそれでもなんと長いことか。
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 この世界にこれが最後のサービスのつもり
                逆さに花束を振る

                (題詠2014:17 サービス)

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あたしはどの時代に生まれていたとしても早い年令で社会からはみ出ていたに違いないとは判ってはいるけれど、特に69年の高校生で、三月、卒業式の送辞なんかを読むことになったらそりゃはみ出るのにも加速がつくというもので、今思うとあれは学校側も随分無謀ではなかったか。いくら従来の決まりとはいえ、普段の言動を見ていて一番ヤバそうな奴にそんなことをさせるなんて。

純真な”疑問を持つ少女”ではなく、学校どころか未来に愛想を尽かしていた子どもだったので、その前後のけっこうな騒動にも平然としていて、周りはほんとに扱いにくかったと思う。もっと賢かったら醒めた態度でそんな役割は断るかあるいは淡々と済ませるか。
と、昨日の季語でちょっと追憶。

  粉砕の言葉懐かし卒業式

それから時間はずいぶん流れて幾重にも折り畳まれ、屈曲点は数限りなくやってきたけれど、残念ながらずっと阿呆なままなので同じ場面を何度やっても必ず同じことになる。

 善悪は、主体によってはじめて成立する。そして主体は世界に属さない。それは世界の限界なのであるーウィトゲンシュタイン『草稿』
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 未生より長く捜せしおとうとの肋の骨に赤き花咲く
                        (題詠2014:16 捜)

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ずっと文字のある世界で生きているので漢字が入る以前、文字がなかったと言われている時間の言葉がいつも気にかかる。文字がなくても当然言語はあるわけで、古社の護符などに残る所謂神代文字は否定論者が多いというが、安定したあまり大きくない共同体で儀式や祭事に使われた文字はあったのかもしれない。
それよりもアイヌのユーカラのように口承で伝えられた物語や歌は必ずあったはずで、それに漢字を当て、漢語の意味を付与され、現在残っている書き文字の物語はきっとそれ以前とは大きく意味を変えているはずだと思う。

文字ができてからもそれを読み書きするのは限られたひと、明治以前は文字を知らない人間は多かったわけで、それでも口伝や口承で物語をひとは楽しむ。ひとつひとつの単語の意味の連なりというより、音韻の流れに身を浸すことで語られる全体を享受したのではなかろうか。

うちの祖母が教育婆だったのでその時代にしてはあたしは文字との出会いが早かったが、それでも与えられる絵本より父がするお話の方がずっと好きだった。芝居っ気のあるひとで、お菊さんや累は声を裏返して女言葉を使い、薄暗くした部屋で布団に包まって聞いていると喋っている父が父ではなくなり時間が重くなって、物語の中にさ迷いこんで怖いような寂しいような、そんな気分になるのが面白かった。千夜一夜なども父が読んでくれる方が子ども向けに要約されたものよりずっと膨らみがあって続きが待遠しかったし、そのお話が終わるのがとても残念だった。

ひとりで文庫本が読めるようになる頃にはすっかり活字を追う方に宗旨替えしたけれど、あの時間を思い出すとけっこう幸せな気分になる。
文字以前の音としての言語の世界も、案外豊かで色味が濃かったんだろうと想像するのだ。
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Author:砂女
日々是茫々


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